§チェンマイの歴史チェンマイは、ランナータイ Lanner Thai王国の建国者であるメンラーイ(マンラーイ) ManRai王により、1296年に王都として建設された古い歴史を誇る都市です。正式名称は、ノッパブリー・シー・ナコーン・ピン・チェン・マイ Nopphaburi Si Nakhon Ping Chiang Mai(ピン河の畔の美しい新都)。 ▼チェンセーンのタイ族伝承によると、メンラーイ王の始祖はかなり早い段階にメコン河流域を南下したタイ族の1グループで、6世紀頃にはすでにチェンセーンの地にムアン・グン・ヤーンを成立させていたとされる。近隣には、少なくともランナー建国の約200年前には、タイ族の支配地がパヤオとプレーにも存在しており、メコン河に沿って南下したタイ族が、タイの地に進出していく様子がうかがえる。 パヤオはチェンセーンのタイ王族・ポー・クム・チョーム・ダームが周辺をまとめた都であるといわれ、後にランナータイ王国がパヤオ、プレーと軍事連盟を結ぶことからタイ族のムアン(都)と考えて差し支えないようだ。 当時の時代背景を見てみると、6世紀から11世紀のタイの地には、中央タイのロッブリーを王都としたモーン族の国ドヴァラヴァティ Dvaravati王国が繁栄しており、チャオプラヤー川流域のみならずビルマ西部をも支配する大国であった。7世紀から12世紀にかけてはクメール Khmer王国が今のタイ東北部から北部地方にまで勢力範囲を広げていた。 中国南西部から漢民族の圧力を逃れてクメールの支配地に進出しきたタイ族は、この地でもまた強国への従属を強いられる事になる。これは、1236年タイで最初の王国を建国したとされるスコータイも例外ではない。スコータイのシーインタラーティット王も、もともとはクメールが支配していたムアン・バーン・ヤーンの首長にすぎなかったのである。 ▼ランナータイ王国の建設メコン河の畔チェンセーンのラーオメン王の王子であったメンラーイ王は、父王の死後1259年王位を継ぎ、1263年チェンセーンの南、チェンライをランナータイ王国(「百万の田を有する王国」の意味)の王都とした。 ▼ランプーンのハリプンチャイ王国を倒すその後近隣に勢力を拡大したメンラーイ王は、1281年南方ラムプーンのモーン族の国ハリプンチャイ王国を倒して広大な領土を領有することとなった。 ▼チェンマイへ遷都1291年メンラーイ王は新都の建設を決意し、盟友関係にあったスコータイ王国のラームカムヘン王、パヤオ王国のガムムアン王の助言と協力を得て、ドイ・ステープ(山)とピン河の間の肥沃な土地を新都と定め建設に着手した(旧県庁の前庭に三人の王様の銅像がある)。 周囲に堀と城壁をめぐらした新しい都は1296年完成し、ノッパブリー・シー・ナコン・ピン・チェン・マイ(ピン河の畔の美しい新都)と名づけられた。 ▼成熟期と滅亡チェンマイは長い間ランナータイ王国の王都として栄え、15世紀後半には南方上座部仏教を基盤とするランナータイ文化は成熟期を迎えている。しかし、王国は北ではビルマとの紛争が絶えず、また、南ではアユタヤ王国との間で戦争が繰り返され、最後はアユタヤの支配を受け、ついで1558年、ビルマの侵攻を受けてランナータイ王国は滅亡した。 ▼復興チェンマイはその後216年間ビルマの属領となっていたが、1768年に興ったトンブリ王朝のタクシン王が1774年ビルマの勢力を駆逐して支配下においた。その後チェンマイは一時廃都となった時期もあったが、ラムプーンのカーウィラ王子が、トンブリ王朝を継承したチャクリ王朝ラーマ1世の庇護を受け、都を復興した。 王子は1802年チェンマイ太守に任ぜられ、後チェンマイ王家を興してタイの属国となり9代116年続いたが、1892年チュラロンコーン大王(ラーマ5世)により、タイの地方行政組織、西北州に組み込まれ、1933年立憲君主制移行に伴う制度改革でチェンマイ県の一つとなり内務省の行政管轄下におかれることとなった。チェンマイ旧市街は1966年から1969年にかけて再復興が行われた。 |
| TOP | 掲示板 | 地図の登録 | 地図のリンク | お問い合わせ |