アジアと日本日本人は、もっと世界を見つめ事実を直視して、日本人としてのプライドを持ちましょう。 ▼もし、日本なかりせば 1992年10月
日本の存在しない世界を想像してみたらよい。 貧しい南側諸国から輸出される原材料の価格は、買い手が北側のヨーロッパ諸国しかないので最低水準に固定される。その結果、市場における南側諸国の立場は弱まる。 南側のいくつかの国の経済開発も、東アジアの強力な工業国家の誕生もありえなかっただろう。多国籍企業が安い労働力を求めて南側の国々に投資したのは、日本と競争せざるをえなかったからにほかならない。日本との競争がなければ、開発途上国への投資はなかった。 また日本と日本のサクセス・ストーリーがなければ、東アジア諸国は模範にすべきものがなかっただろう。ヨーロッパが開発・完成させた産業分野では、自分たちは太刀打ちできないと信じ続けていただろう。 もし、日本なかりせば、世界は全く違う様相を呈していただろう。富める北側はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。北側のヨーロッパは、永遠に世界を支配したことだろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、スズを掘り、それを富める工業国の顧客の言い値で売り続けていただろう。
1992年10月、欧州・東アジア経済フォーラム(香港) ※欧米のアジアに対する経済圧力への痛烈な批判と、日本へはアジア経済圏の盟主としての自覚を促している。 ▼ソウルから日本を眺めていると、日本が「心」という字に見える 1967年「ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心という字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室(御をつけられる)戴き、歴史に断絶がない。日本固有の神道が、現在にいたるまで相続されており、国家全体が調和された形で形成されている。”八校為宇”という考え方は、日本の大らかさの現れであって、これは積極的に世界に知らせる必要がある。 それに較べて韓国の歴史は、悲惨であって断層が深く、涙なくしてみることはできない。暗い場所から見れば、明るい所は余計にはっきりと判る。韓国は日本文化の豊かさの中から学ぶことによって、内面的支柱を確立するよう努力したい」 「韓国の檀君神話といっても、あれは高麗時代、モンゴルの支配下に置かれた時、まとめたもので、高麗神話の性格が強い。 ほかに新羅や百済や駕洛にも神話がある。韓国は、日本のように統一した一つの神話になっていない。日本神話は、ギリシャやユダヤの神話に較べて明るく、ロマンの香りが高く親しみやすい。それに日本神話は檀君神話より400年も前にまとめられた。私が日本神話に内面的親しみを感ずるのは、日韓は同祖だと信ずるからである。それは民俗学的な立場からも立証できる。韓国は古来から祖先信仰と自然崇拝の念が強く、山神霊廟があり、それらをまつるために、『鳥居』や『しめなわ』『ヒモロギ』を使ってきた。それに日韓両国には、『白衣』の思想があった(これらは中国にはない) 日本の神職は 、神に近づく時には白衣を着る。韓国民も霊廟に参拝する時には白衣を着るのが礼儀となっている。まず自らの身を浄める訳である」 「第二次大戦後の日韓関係は、李承晩政権の影響もあって、共産主義以上に日本を憎む傾向があった。そのため日韓にの氷山の一角を誇大に強調して、隠された部分を見落としていた。お互いの精神的歴史的豊かさを掘り起こす努力をしようではないか。そのために日本は自信を取り戻して、おおらかに民族形成の原点に立ち返ってほしい」 日本こそ勝ったのであり、 日本の戦争こそ、「聖なる戦争」であった「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。”事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。 日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけで なく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争ーーこの二つの捨身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない」 「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦争に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、 日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。」
【朴 鉄柱】大正11年韓国釜山生まれ、平成二年一月逝去(六十八歳)
引用:日韓共鳴二千年史 名越二荒之助編著・明成社 ▼かつて日本人は清らかで美しかった 1989年4月
かつて 日本人は 清らかで美しかった。
何千万人もの 人のなかには 少しは変な人もいたし おこりんぼや わがままな人もいた。
戦後の日本人は 自分たち日本人のことを 悪者だと思い込まされた。
そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると 自分の国や自分までが えらいと思うようになってきて うわべや 口先では 済まなかった悪かったと言いながら ひとりよがりの 自分本位の えらそうな態度をする。
本当に どうなっちまったんだろう。
ヒョロヒョロの日本人は これが本当の日本人なのだろうか。
こんな ひとたちと 本当に仲良くしてゆけるだろうか。
1989年4月、クアラルンプールにて ▼日本はアジアの光である 1977年※大東亜戦争当時の日本軍を引き合いに出し、延々と罵倒する韓国の軍人に対して
日本はアジアの光である。大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので、チンギス・ハーンとともにアジア人の誇りである。我々は軍人だから、人類は絶滅する日まで戦争は続くと考えて、日本の軍人から、ハワイ空襲戦やシンガポール攻略戦を聞こうではないか。 ここで、インド ネシアの日本民族の価値について申し上げる。今、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら、アジアとアフリカは非常に困る。その時に韓国が一番困ると思う。韓国は工業大国の日本と競争したから、立派な工業国になれたのである。近くに強力な競争相手がいることは素晴らしいものだ。世界は韓国と日本を同民族で同能力の持ち主と見ている。
ベトナム戦争当時に「韓国軍は(大東亜戦争当時の)日本軍と同じで勇猛果敢だ」と評判が立ち、中ソ連合軍が緊張したことがある。もし日本がシンガポールの地点にあったら、インドネシア人は少なくとも百万人が日本に住み、日本人と同等の教育を受けるから、その人間関係から日本の技術、市場、金融、スタッフ等を活用することができる。
つまり、我々インドネシア人は「日本はなにもしてくれなくてもよい」と考えている。日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分アジア・アフリカに尽くして いる。日本は存在するだけで十分にアジア・アフリカに尽くしている、と考えている。
1977年マニラ国際会議 ※いつまでも反日を口にする韓国への批判と、いつまでも黙して語らない日本への援護と期待。 ▼帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか! 1944年(昭和19年)ぺリリュー島守備隊長中川州男大佐世界一の親日国家パラオ共和国(1994年アメリカ合衆国から独立)で語り継がれている話
当時、島には日本軍が進駐し陣地が作られ、老人や村の若者達はその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。 やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。 仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。 「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという、「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
※ペリリュー島守備隊一万二千名は、完全に補給も途絶え食糧もない中、73日間にも亘る死闘を続けた後、11月24日の16時、最後に「サクラ サクラ」の6文字を打電して全員が玉砕した。現地住民の死者は0。
※この戦いは、後に米太平洋艦隊ニミッツ提督をして「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて1万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」といわしめた戦いであった。 ニミッツ提督がペリリュー神社に残した石碑がある。諸国から訪ねる旅人たちよこの島を守るために日本軍人が いかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ 米太平洋艦隊指令長官 C.W.ニミッツ ※ニミッツ提督は、戦後、横須賀にあった戦艦「三笠」保存のために私財を献じたことでも知られている。ニミッツ提督もまた武人であった。
パラオの国旗は、日本の「日の丸」にそっくりである。
「私たちは国旗の選択に相当苦労した。応募者は悉く各島の人々であり、それぞれの旗にパラオの歴史と伝統が込められていた。
だから、選考委員は真剣であった。選考に日数をかけた。でも、最終的にこの旗に決まったのは、日本の旗に一番似ていたので、最大の人気が集まった。
日の丸の部分を黄色にしたのは、月をあらわす。周囲の青地は海を意味する。月は太陽が出ないと輝くことができない。つまり月は太陽によって支えられ、月としての生命を持つ。 太陽とは日本のことである。海に囲まれたパラオという国は、日本の太陽の反射によって輝かねば生きられないのである。我々はまた戦争中に、日の丸を掲げて強大な米軍と交戦した日本軍将兵の勇敢さと純粋さに、大きな魅力と尊敬を捧げている。一万に及ぶ英霊たちは私達に、勇気と国を想う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのである」 ▼台湾人が日本人だけを祀っている「鎮安堂 飛虎将軍廟」1944年10月12日 身を挺して町を救った杉浦茂峰少尉台南市の北西5キロの郊外に、「鎮安堂飛虎将軍廟」がある。 そこに奉られているのは、 大東亜戦争中、台南上空の空中戦で壮烈な戦死を遂げた日本海軍の杉浦茂峰少尉(当時兵曹長)である。 昭和19年10月12日、大東亜戦争も末期に近く、米軍は台湾各地に航空決戦を挑んで きた。 午前7時19分、米軍機台南来襲、日本零戦は上昇し空中戦、零戦は勇敢に戦ったが、 数を頼む米軍機には勝てず、一機又一機と撃墜されていった。 そのうちの一機は尾翼より発 火し、海尾の大集落へ向かって落下していった。 このまま落下したら、海尾の町は大火事になる。そのとき、零戦は機種を上げて上昇し、海尾の町をはずれ東方の畑の方へ飛び去った。 飛行士は落下傘で飛び降りたが、グラマンの機銃掃射を浴びて、落下傘は破れて、飛行士は 墜落した。 その後、町の有力者達が集まり、身を挺して海尾の町を戦火から救った飛行士の為に、永 久にその恩徳を顕彰する事を衆議一致で決議した。 そして昭和46年に廟を建設して毎日お参りをした。 そうしたら、稲作は豊作、豚や魚の養殖も順調で、宝くじまで当たる者も出てきた。 廟は海尾集落の守り神として集落の人々の尊敬を集めている。 毎日遠近からの参拝者が多く、日本からの参拝者も年中絶えない。 廟の正面には「鎮安堂飛虎将軍廟」と書いた額が揚げられている。 「鎮安」とは鎮邪安民の意で、「飛虎」とは戦闘機又は空を飛ぶの意である。 「将軍」は神として奉られる勇士の尊称である。 廟守は朝は日本の国歌「君が代」、夕は「海ゆかば」を粛々と歌うのである。 祭壇の両脇には中華民国の国旗と日本の国旗が立ててある。
台南市安南区同安路127号
※米軍の新鋭グラマンF6F戦闘機約四十機の来襲に対し、日本側は台南航空隊、高雄航空隊の三十七機が迎撃。 ※当時、この空中戦を最初から最後まで見ていた十七歳の農夫・呉省事さんの畑の周辺には、三機の日本機が墜落したという。 体当たりで戦死したパイロットの死体は上半身はなく、下半身だけが残り、飛行靴に「杉浦」と書いてあった。
※「この地区を視察に来た当時の蘇南成台南市長は、日本人でしかも日本軍人を祀るとはけしからんと言って、廟を取り壊そうとしました。 工務局から撤去のための部隊が来ましたが、廟の付近の人々は集まって、彼らに対抗しました」
一部引用:台湾独立の胎動-11 ▼ビルマ戦線1886年、ビルマ、イギリスの植民地に最後の王朝、コンバウン王朝(1752年~1886年)は武力を恃み、近隣諸国を征服し、領土を拡大したが、1825年から1885年にかけてイギリスの侵略戦争に敗れ、ビルマは大英帝国支配下のインド領の一部の州となってしまった。イギリスはインド人にビルマ支配をやらせる間接統治の政策をとった。そのためビルマはインド人とその資本家に牛耳られたのである。 ビルマ人は岩塩の採取を禁じられ、英緬製塩会社の高い製品を買わされていたし、白紙を売買することを禁じられていた。紙は英人宣教師の手を経て入手する以外に方法がない。これは教会の利益を図ると同時に、文化・言論運動の抑圧でもある。植民地の悲哀はいかに温和なビルマの人々にも抵抗の意志はあったが、イギリスの軍事力の前に屈服せざるを得なかった。 ビルマの独立運動しかし、ビルマにも独立に向かって突き進む人々がいた。日本とビルマの架け橋になった最初の人物は、ウー・オッタマ僧正である。彼は若いころイギリスに留学して、帰国後、抗英独立運動を唱えて投獄された。
ところが日本が日露戦争に勝ったことに感動し、1907年(明治40)、来日する。日本精神の根源を知りたくて船賃を工面して、日本国内を見て回った。東京大学で仏教哲学も教えた。3年間滞在し、帰国して「日本」という本をビルマで発刊した。 1920年にビルマで「青年仏教徒連盟」を改組して「ビルマ人団体総評議会」を組織したが、またもや投獄された。釈放されると今度は納税ボイコット運動を起こして逮捕され終身刑を宣告され、1939年に獄死したのである。
オッタマ僧正は昭和4年にも来日しているが、日本の変わりように驚いて、「日本人の人情はうすくなり、明治の心を忘れてしまっている。これでは日本は滅びるであろう」と予言している。
ウィサラ僧正も同時期の人であるが、1938年に全国的な反英運動が盛り上がり、3千人の愛国者が投獄されたが、その指導者である。 彼らの遺志を継いだのが1893年生まれのバー・モウである。イギリスのケンブリッジ、フランスのボルドー両大学に留学し、弁護士資格とビルマ人としては最初の哲学博士号を得て帰国した。ビルマにマルクス主義が流行したとき、貧民党を創って政界に進出し、1937年イギリス支配下に初代の首相となり、憲法を実施した。 しかしその後日本とも接触を保ちながら「自由ブロック」の総裁となり、それが反英運動に発展、1940年(昭和15)武装蜂起計画を日本に通告してきた。書記長のオン・サンは日本に亡命し、バー・モウは奥地のモゴック刑務所に投獄された。 日本軍の進攻
そんなビルマに1942年1月18日、日本軍が進攻してきたのである。
日本が米英との戦争に踏み切った大きな要因は重慶の蒋介石政府の打倒にある。そのために、香港ルート、南仏ルート、シンガポールルート、フィリピンルートを封じてきた。残るは雲南・ビルマルートを封じなければこれまでの戦いは無駄に終わる。 タイ国もビルマと同じ南伝仏教を深く信仰する国であるから、表面上は親英を装っていても、内心では欧米のアジアでの圧政を苦々しく思っていた。そこで、真珠湾攻撃で日本が勝利を挙げると日本軍に味方した。タイ国内の日本軍の通過を承認したのである。
それでもタイとビルマの国境も天然の要塞である。
イギリスはこれを利用し、わざと不便にしておいた。
蒋介石は雲南省から10万の兵を派遣してすでにビルマ国境を続々と越えてきている。 北タイ、象の道
日本軍はビルマ最南端の国境の平坦部分から進入すると見せかけて、大部分の兵を「象が通る道」がある北の山岳地帯の国境から道路を整備しておいて一気にビルマ国内に進入した。
騎兵隊の大活躍で、南部を次々に制した。「象の道」からさらに進攻してきた主力第33師団は英印軍とバアーンにおいて戦闘を展開した。 首都ラングーン陥落勢いがある日本軍はわずかの兵で3月8日、首都ラングーンを陥れた。 ビルマの西部には唯一の海港アキャブがあり、ここを占領する英印軍との戦いにも勝利した。
この戦勝を記念する「戦捷記念塔」がビルマ住民の熱心な協力によりエナンジョンの公園に建てられた。
ビルマ人は歓呼の声で日本軍を迎え入れた。
こうなれば何も恐れることはない。イギリスの植民地になる100年前の古都マンダレーは重慶軍の放火退却によって市街の半分は焼けたが取り戻した。 1943年ビルマ独立
日本軍に救出されて英印をビルマから追い出した昭和18年3月、バー・モウは日本を訪問し、天皇陛下に拝謁した。インドの独立運動家チャンドラ・ボースとも懇意で、お互いの国の独立のため連帯をもつことを約束していた。 地理さえ知らない日本軍の勝利
地理さえ知らない日本軍が短期間に圧勝できたのは「仏教」の力である。
しかし6割のビルマ族は熱烈な仏教徒のままである。一家に一人は僧にするほどの深い信仰は変わらずに、ずっと仏教を守った。
日本軍の将校はビルマに進攻すると各部落に出向いて、僧院を訪ね、日本人も仏教徒であること、ビルマの独立を日本が助ける戦いであることを説いて回った。それで僧たちはみんな喜んで日本軍に味方したのである。 泰緬鉄道
掃討作戦を終えて、ビルマは一応の安定を保ったが、こののち英印軍は必ず体勢を立て直してビルマを取り戻そうと攻めてくるであろう。蒋介石もすべてのルートを閉ざされて黙ってはいまい。支援国英軍が隣国にあるこのビルマを北から攻めてくるであろう。
鉄道の起点は、バンコック・シンガポール線の中間駅「ノンプラドッグ」とし、ケオノイ河の渓谷に沿うて263キロを走り、ニイケ付近で国境を越え、さらに152キロを西進して、ビルマの古都モールメン市の南方タンビュザャット駅に達する415キロに及ぶ鉄道建設計画である。 多くの山岳鉄道を手がけたイギリスでさえ、「不可能」とあきらめたのである。しかし、鉄道にかけては満洲で色々な土地に鉄道敷設した日本の実績にかけてもなんとしてもこの難題を解決せねばならぬ。日本人は「匠の民」であることを世界に示すのだ。それが戦争に勝つことにつながるのだ。南方軍麾下の鉄道監部1個連隊、鉄道連隊2個、鉄道材料廠を基幹としたが、労働者は10万人以上必要である。そこでマレー人、タイ人、ビルマ人労務者と英・オーストラリア・オランダの捕虜たちを利用する方針である。
建設責任者は下田宣力少将が任命され、昭和18年1月から工事に着手した。不眠不休でまさに死に物狂いである。米・英・支、三軍の総反攻がビルマにおいて加えられることが予想され、一刻も早い完成が要求された。
後任には高崎祐政少将が命じられた。起点のタイ側とビルマ側からいきなり測量しながらの工事である。タイ国の地図にも載っていない人跡未踏の密林や難所をクリアしなければならない。415キロは、ほぼ東京から大垣までの距離である。人海戦術に頼るほかない。 捕虜たちには予防注射を施したが、それでもコレラに罹って560名が死亡した。悪性マラリアと栄養失調で斃れる者は1万560人に及んだ。マレー人、タイ人、ビルマ人労務者も3万人が死亡し、日本人も1000人が死んだ。ジャングルに覆われた山々の100kmを通るルートは、短期間では不可能と思われる300以上の橋脚の建設、何ヶ所かの岩山の切り通しなどがあり、熟練技術者たちの突然の死で、その後の工事にも色々と困難が伴った。 普通なら3年かかる工事を8ヶ月で完成させるというのだから、尋常ではない。労務管理は厳しく、捕虜のサボタージュは許さなかったし、反抗する時にはビンタも飛んだ。食事は国境のニイケにいたころは、一人当たり「一日米270グラム、リマ豆24グラム、乾燥野菜15グラム、骨付きの肉類50グラム」であったが、雨季になると米の上に塩か砂糖をふりかけたものに限られた。無論日本兵も同じである。兵の日当は25銭で、これも安かった。しかし決して捕虜虐待をしたのではない。捕虜が働けなくなったら、困るのは日本軍であるのだから。 しかし、驚くべきことか、鉄道は10ヶ月で完成したのだ。1943年(昭和18)10月17日、タイのコンコイタで両方から進められてきた鉄道は接続し、ついに鉄道全線が完成した。10月25日の朝、ビルマの起点タンビュザヤット駅を発した第一列車と、タイ国のバンボンを発した第一列車は同時刻に国境のニイケ駅に進入した。参列した将兵は感激の涙にくれた。 もちろん、鎖国状態であったビルマ人たちも大喜びである。この鉄道のお蔭で兵や物資の大量輸送が可能になった。戦争末期、ビルマからタイに後退した日本軍は、この鉄道がなかったら全滅したであろう。 捕虜虐待しかし、終戦後、連合軍はこのときの使役を「捕虜虐待」であるとして、現地裁判で日本人を死刑40名、無期懲役60名という過酷な判決に処した。しかも泰緬鉄道は連合国、つまりイギリスの財産になった。 イギリス軍は、ビルマ側全線とタイとビルマの国境線から始まる3.95kmの距離で鉄道を撤去した。残る長さ300kmについて、イギリス政府はタイ政府に、鉄道、ホイール、ローラー、素材、機器、および工場を125万ポンドで売却した。 その後、1950年に日本の戦後賠償として、日本の横河橋梁と日本橋梁によって現在の形に作り直された。現在でもタイでは人気のローカル線として利用されている。 ※引用 : 日中戦争の問題点を検証する 歴史研究家:岡崎溪子 第93話 ビルマ戦線▼マレー作戦 1941年大東亜戦争は1941年12月8日、午前1時30分、真珠湾攻撃の始まる2時間前にマレー半島への進軍によって事実上開始された。日本はアメリカの経済制裁を受けて石油がなくなる前に、オランダ領のジャワを攻略して石油を手中に収めるためにはマレー半島からシンガポールを制圧して、ジャワへのルートを確保しなければならない。 しかもマレー半島ではタングステン、錫が採れる。資源に困っている日本には垂涎の的である。当然、日本軍としては第一番の目標とした。しかし、マレー半島は世界の7つの海を支配すると豪語する大英帝国が支配していた。イギリスはアジアには、このほかにも香港、ビルマ、インド、オーストラリア、ボルネオ島など、広大な領土を植民地にしていた。 マレー半島に上陸して最新兵器を持つイギリス守備隊と戦うことは危険な賭けである。しかも半島の先端には海峡を隔ててイギリスが誇る軍事基地シンガポールがあった。イギリスがシンガポールの要塞化に着手したのは、大正12年で、15カ年計画で1500万ポンドをかけて世界最大の要塞をつくりあげた。18インチの大砲、浮きドック、乾ドック、100万トンの重油タンク、などを備え、東洋支配の重要軍事基地とした。昭和16年8月にチャーチルとルーズベルトが会談した世界最新鋭の36750トンの戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を回航させて威嚇していた。 当時マレー半島の地理に詳しい人物は日本人ではほとんどいないのが実情である。そこで参謀本部作戦課の国武輝人少佐を昭和16年1月に実地踏査させて詳細な地理を知った。まず、マレー半島は日本本土の4分の一くらいの面積があり、河川が250くらいある。半島の南北1000キロを縦貫する道路は1本しかなく、道路の両側は密林である。戦闘が始まれば、敵は橋を爆破するであろうから、すばやく橋を修復する工兵連隊の手腕が問われる。さらに敵の後方側面から攻撃するには海上から上陸するための機動用舟艇30隻を準備した。とにかく5万人の兵士が無事にマレー半島に上陸しなければ始まらないのである。 マレーの虎 山下将軍第25軍司令官は「マレーの虎」と恐れられた、陸軍中将・山下奉文(やましたともゆき)である。近衛師団、第五師団、第十八師団、第3飛行集団を統括してこの作戦に当たる。第五師団は「広島鯉兵団」と呼ばれ、日本一の機甲兵団として最強を誇った。主力の歩兵は「銀輪部隊」で、トラックが走れないのを想定して自転車を用意したのもアイディアである。当時はゴムは貴重品だがタイヤがパンクすると、まわりにゴムの木がたくさんあるので、木から生ゴムをとって修理した。台湾にある気象台から12月8日以降は天気が下り坂になるとの報告を受けていた。 12月4日、午前6時半、第五師団の主力、第十八師団の先遣隊を乗せた船団は海南島の三亜を出発した。山下奉文以下の幹部も共に陣頭にたつべく乗り込んだ。12月7日、予定通りマレー沖に到達した。ここで船団を三分して、上陸予定地のシンゴラ、パタニ、コタバルの三地点に向かった。 マレー半島のタイ国の一部であるシンゴラに山下軍司令部と第五師団の半数が午前四時に上陸した。タイ国民も誰も知らぬ間のことで、日本領事館の領事は寝ぼけ眼で山下将軍に会って驚いた。 コタバルはイギリス領であり、サバ海岸から敵前上陸した5318名の陀美(あつみ)支隊は、迎え撃つ英国軍の国境守備隊、兵力約9千(インド兵が約7割、英国兵が約3割)と戦闘となり、12月8日午前1時半から、4時間の苦闘のすえ制圧し、佗美浩少将以下占領した飛行場に集結した。佗美支隊はその後、11日には補給基地トンバット、12日にはムロン、13日は航空基地タナメラと電撃的に部隊を進めていった。パタニに上陸した安藤支隊もベラク河に沿って進撃。三方から追撃戦に出た。 タイ国境に近い山岳地帯にイギリス軍のマレー・シンガポール防衛の第一線であるジットラ・ラインが日本軍に立ちはだかった。ラインオン中将率いる英印軍第11師団と第8、第22師団を相手に激戦が始まった。このジットラは道路が1本だけ、左右は湿地帯で、そこに鉄条網や防塁が三重四重に張り巡らされており、日本軍は悪戦苦闘した。しかし、ついに豪雨を突いて猛攻撃し、突破した。 12月10日にはマレー沖海戦で日本海軍はプリンス・オブ・ウエールズとレパルスを撃沈し、気勢をあげた。陸軍も負けてはいられない。 解放軍現地のマレー人、タイ人、インドネシア人、親日派支那人たちはこぞって大喜びで、上陸以後は日本軍に協力を惜しまなかった。何しろ白色人種に侵略されて300年の間圧政に苦しんできたのだから、日本軍に対して「解放軍来る!」と歓呼して迎えたのである。 マレー半島やシンガポールのイギリス人はテニスコート、プールつきの豪邸に住み、入り口に大きな看板を立て「ホワイトマン・オンリー」と、書いていた。それで老若男女、すべての人民が全部日本軍に味方した。食糧、薪炭、輸送、情報の提供などなんでも協力を惜しまなかった。 ただ華僑はイギリス人の手先となって稼いでいたから、反日義勇軍を組織して抵抗した。彼らは常套手段で「便衣隊」を使う。兵隊が住民の衣服を着ていて安心していると、隠し持った武器でいきなり攻撃してくる。相変わらず卑怯である。この便衣隊は国際法違反なのだが、支那との戦いでは毎度のことである。それで、彼らを殺すと「住民が虐殺された」というのだ。しかも数は決まって大幅に増える。 シンガポール陥落シンガポールという言葉はサンスクリットから出た言葉で「獅子の町」という意味である。伝説ではスマトラの王子様が虎と獅子を間違えたことから15世紀にこの名がついた。16世紀以降、対岸ジョホールのスルタンの支配下にあったが、東南アジアの交易ルートを制するシンガポールの地理的重要性に着目したイギリス人のトーマス・ラッフルズがこの島を占領し、1814年イギリスは5万ドルでジョホールのスルタンから買い取った。1819年近代的なシンガポール港を開き、1826年ペナンやマラッカとともにイギリスの海峡植民地となった。 さてマレー半島を東岸部隊と西岸部隊に分かれて進軍した日本軍は、1月28日に出会い、31日には半島の南端ジョホールバールに突入した。野砲と重砲を集めてイギリス軍との猛烈な砲撃戦が展開された。イギリス軍の輸送船団と小船が撤退しようとするのを日本の航空隊が猛爆した。山下司令官は2月8日にシンガポール総攻撃を開始した。2月11日、紀元節の日にプキティマ高地を占領したので、飛行機から投降勧告文を収めた通信筒を20個イギリス軍の司令部めがけて落した。住民には「もうこれ以上、無益な抵抗はやめよ」と、英語と支那語の伝単(びら)を撒布した。ところがイギリス軍と豪州軍と華僑の義勇軍はこれに応じずプキティマを奪取しようと逆襲してきた。 いたるところで死闘がおき、肉弾戦がくりひろげられた。13日の朝、日本軍がイギリス軍の貯水池を占領する。14日は市街戦に移った。ついに15日の午後2時にイギリス軍から停戦の申し入れがあり、4時まで会談。6時40分、パーシバル中将ら4名がプキティマ高地のフォード自動車工場の部屋で山下司令官と会見し、無条件降伏となった。 日本はシンガポールを「昭和の御代に得た南の地」という意味の「昭南島」と改名し、他の占領地に先駆け正式に併合、日本領として「昭南特別市」を設置した。初代市長には、日本人である大達茂雄が任命された。 大東亜戦争の特色は大本営と現地の将軍たちの思想の違いが大きかったことである。東京の参謀本部の軍人たちは、おおまかなアジアの地図を広げて作戦を立てる。しかし、地図には現れない、断崖絶壁で船を寄せ付けない海岸や、大ジャングル地帯、舗装されていない悪路、風土病、特異な風習などを無視して、机上の作戦を立てても現地では通用しないのである。東条は陸軍大学での作戦の攻防の授業の延長のように考えて指令するのが好きなのだ。東条は「戦争ゲーム」をしていた。 インド独立連盟・IIL山下将軍はマレーの地形と、華僑、インド人、マレー人など習慣の違う人種が住んでいることに注目して、現地の人たちの支持がなければ勝てないと悟ったのである。バンコック駐在武官・田村大佐もまた開戦前から現地人の協力を取り付ける努力を参謀本部に訴えていた。昭和16年9月18日になってやっと第八課の中野学校の教官を勤めた藤原岩市少佐にF機関を作らせた。この思想戦は中野学校の卒業生を中心に組織された。敵であるイギリス軍には植民地から徴発したインド兵が多い。まず、現地の90万人のインド人を味方につけ、「反英独立」の思想を目覚めさせることに苦心した。マレー英印軍内インド兵の戦意破砕、投降と背反を促し、「インド独立」に向かわせることだ。 バンコックに本部を持つ「インド独立連盟・IIL」はシーク族が主体の秘密結社であるが、支部はニューヨーク、ベルリンをはじめアジア各地に微力ながら存在していた。田村大佐はプリタムシン書記長と会談し、意気投合した。ついに12月31日にはインド国民軍・INAを誕生させた。山下将軍はインド側の要求を全面的に認め、インド兵の捕虜に対してINAに参加を希望するものは解放することを約束した。こうして日本軍の現地の賢い将軍は必然的に占領よりも原住民への独立を望む結果となった。東条は日本が勝ったら占領するのが当たり前と思っているが、ジャワに向かう軍隊をさいて駐在することのムダが軍隊を弱体化することに気がつかない。現地人を信頼して任せることが戦局を有利にさせるのだ。 山下司令官は電光石火、わずか2ヶ月余りで1千キロ以上を南下し、8万の敵を蹴散らし、ついにシンガポール占領を成功させた武功輝く将軍である。しかも戦争で亡くなった敵味方の兵士や戦争に巻き込まれて死んだ市民の霊を弔うため2月19日には軍の慰霊祭、20日にはラッフルズ大学でシンガポール市民とインド兵を交えて慰霊祭をおこなった。 大本営と寺内寿一元帥は「入城式を行え」と命じたが、断固としてはねつけ、入城式はせずに軍を郊外に留めた。勝って威張ることなく、民政に気を配った。すべての「ホワイトマン・オンリー」の看板をはずさせ、日本兵と現地人はプールで共に泳ぎ、テニスに興じた。人々はイギリスから解放された実感に大喜びした。日本は占領中、マレー人優遇で、イギリス勢力の排除と華僑勢力の抑制の2大方針で統治した。山下将軍の人気はうなぎのぼりである。 すると東条首相は山下将軍を満洲に左遷したのである。その後は大きな作戦を任される事はなかった。そしてマレーの独立もなくなった。そしてフィリピンがアメリカの攻撃を受けて危機に陥った1944年司令官に命じて指揮させた。すでに日本の敗戦が濃厚になっており、撤退か降伏の道しかなかった時期である。山下将軍はマッカーサーによって絞首刑となる。 ハリマオマレー攻略で忘れてならないのは「ハリマオ」の存在である。マンガや小説に書かれ、映画にもなったハリマオは実在の人物で、れっきとした日本人である。本名は谷豊(たにゆたか)という美少年である。谷豊は明治44年、福岡県筑紫郡曰佐村五十川に生まれた。翌年、福岡から、父・浦吉と母・トミの3人でマレー半島東海岸、クアラ・トレンガヌへ移る。2歳の時だった。一家は町の中心部で理髪店を開業した。当時トレンガヌには30人ほどの日本人が住んでいたが、浦吉はここで三人の娘と一人の息子をもうけた。豊の幼年時代の遊び相手はマレー人や支那人であった。豊は妹弟とともに、マレー社会にどっぷりつかり、成長した。 大正7年、父の意思により、日本の小学校で勉強するため福岡へ戻った豊は、伯父の清吉宅から曰佐小学校へ通い始める。小学生の豊は、勉強よりも遊びの方が得意で、手の器用さは群を抜いていた。大正14年、豊は高等小学校の途中でマレーに帰り、家業を手伝うようになる。豊は19歳でマレー人女性ワンシティさんと結婚し、イスラム教へ改宗した。 豊の平和な生活を破ったのは満州事変だった。華僑が多く住む英領マレーにも反日運動が波及し、華僑による日本人襲撃が少なからず起きていた。中国大陸と違ってマレー半島には日本人を保護する軍隊はいなかった。 翌1932年、トレンガヌでも起きた華僑暴動で、谷家の末娘の静子が暴徒に惨殺されるという痛ましい事件が起きた。逃げ遅れた静子が理髪店の二階で殺された上、首を切られたのである。犯人は逃げたが捕らえられ、死刑になっている。 静子が虐殺されたとき、豊は日本の徴兵検査を受けるため福岡に来ていた。検査結果は丙種合格。いわゆる不合格。身長が3cm足りなかったのである。豊の身長は152cmだった。豊はしばらく福岡市内の「アサヒ足袋」や鉄工所で働いた。しかし、豊のマレーへの思いは日増しに強まり、二度にわたって密出国を企てるが失敗している。 復讐父浦吉は昭和6年の12月に死亡、一家は昭和9年に帰国したが、事件は一家が福岡へ戻って半年後に豊の知るところとなり、妹思いだった豊は復讐に燃え、マレーへ帰っていく。 昭和10年10月、トレンガヌへ帰ってきた豊は、昔の家の近くで理髪店を営んだ。ここでチェソムというマレー人女性と二回目の結婚をする。店は結構繁盛していたが、一年を過ぎたころ、店を閉める。そして友人のアリさんに「オレはタイに行く。いつ帰るか分からない」という言葉を残し、町から姿を消した。 それからしばらくして、英国人や支那人の事務所だけを襲う盗賊が出没するようになった。最初の事件は昭和12年、トレンガヌ州政府土地局だった。ここで土地証文や債券、手形など時価三万ドルが盗まれた。同年10月、豊はトレンガヌ州政府から国外追放を命じられる。豊がタイに入って間もなくして、国境の町スンガイ・コロの白人経営の金鉱山で、純金8本が金庫から盗まれる事件が起きる。手口は同じ、人の殺傷は一切ない。当時、妹の夫でコタバルに住んでいた福丸氏から福岡の実家に手紙が届いている。「スンガイ・コロの事件は、コタバル在住の日本人の間でも取りざたされております。やり口が話の通りなら、豊さんの仕業ではないかと考えています」 昭和14年、パスポート不携帯でタイのパタニ刑務所に服役中だった豊を、のちに4番目の結婚相手となるマレー人女性ジェミノさんが保釈金三百バーツを払い、釈放させる。そして、タイ領クレセット村(現バンプー村)で新しい生活が始まった。そのころの親友だったチェカデ氏はこう語った。 「豊はもてたね。色白でハンサムだし、結婚したのもジェミノの一目惚れだった。豊は毎日魚釣りと刀作りをしていたよ。何といってもジェミノ家は地元の大地主だったし、生活には困ってなかったね」 のどかなクレセット村で暮らした3年は、豊にとってそれまでの人生の中で最も安定した、平和な日々だったようだ。戦争がなければ、ずっとこの村で暮らしていたのではないかと思う。しかし戦争により、豊の人生は一変する。 神本利男昭和16年4月、当時、豊は部下の無銭飲食の責任を取らされてタイ南部シンゴラの監獄に放り込まれていた。幸いにも、その人物がハリマオだと知っていたのはマレー人たちだけだったからイギリス側に引き渡されることもなかった。そこから救い出したのが神本利男である。神本利男は支那の武術である武当派拳法の達人で支那人の黒社会にも名が知れていたため、東南アジアでの活動は容易だった。神本はタイ側から鬱蒼たるジャングルを超えて、国境近くのカンポン村にマレー人社会の長老だったマホマッド・ヤシンを訪ねる。ヤシンはメッカ巡礼を終えたハジ(イスラム教で一番高い地位にいる人の称号)だった。神本はハリマオの所在を聞き出し、タイの監獄から救出する。 1941年7月「3000人のマレー人を配下に置いた日本人義賊」の存在は、駐タイ日本大使館付武官・田村浩大佐から参謀本部第八課の謀略班長・門松正一中佐の耳に入り、諜報機関・藤原機関(通称「F機関」)が「ハリマオ工作」と称して豊を探していた。参謀本部の意向を受けた神本利男という民間人がバンコクに潜入し、ハリマオ工作を開始する。神本利男の説得で、マレー人として生きることを決めていたハリマオが日本軍に協力することになったことは事実である。 豊は日本軍に協力することを約束。マレーを英国から解放するという言葉を信じ、諜報活動を開始する。F機関から軍資金も出るようになる。チェカデ氏はハジャイに住む神本氏から石けんや缶詰、資金(千~三千バーツ)を受け取り、豊に届けた。村には「ある村人の漁船が壊れたが修理する金がない。その資金を豊が出してくれた」という話が残っている。面倒見のよさは変わらないものだった。クレセット村に住んで3年近くたったある夜、豊はチェカデ氏に自分が日本人であることと、日本軍の動きを打ち明ける。「ひと月もしないうちに日本軍が上陸する。これは俺とお前二人だけの秘密だ」と、月に向かって誓ったという。そして彼の言葉は現実となり、昭和16年12月8日午前2時、日本軍はマレー半島に上陸する。 「マレー人部下3000人」は噂であり、事実は豊の部下は当時は100人くらいしかいなかったが、ハリマオという日本人がマレーの長老たちから非常に信頼されていたことはマレー人の日本軍への全面協力となった。 豊はジャングルの地理や人情に精通しており、情報が正確で、貴重な人材であった。F機関の米村少尉、神本氏とともに南タイからマレー半島のカンパルのイギリス軍基地の背後に入り、攪乱工作に専念していた。藤原機関長は豊と会い、カレーライスを食べながら1時間会談した。藤原は豊を激励し共に戦う約束をした。 その後、豊は重いマラリアに冒されながら、マレー義勇軍の解散、軍需物資満載の列車転覆、通信網、交通網の切断、敵情報告、ジャングルを先回りしてイギリス軍が橋やダムに仕掛けた爆破装置を解除するなど大活躍を続けた。 1942年(昭和17)2月中旬シンガポール激戦の中、久しぶりに藤原機関全員が集結した。このときすでに豊の健康は重態であった。機関長から待ちに待った母親の手紙を渡され、神本氏に読んでもらいながら涙に咽び枕に顔をうずめていたが、すでに立ち上がることができなかった。ジョホール野戦病院を経てシンガポール兵站病院に移され、手厚い看護を受けたが病状はいっこうに快方に向かわなかった。豊の再起不能を予測した機関長は軍政監・馬奈木将軍に具申して、彼を軍政監部の雇員に起用し、その身分を保証してもらう処置をとった。 米村少尉、神本氏および腹心の部下たちの懸命の看護も虚しく、豊は危篤状態に陥った。機関長は東京出張中なので山口副官が駆けつけてその臨終を見守った。豊は自分の最後を悟ったのか、急に晴れ晴れとした顔つきで周囲を見渡し、神本の手を握って、「官員さんになれてうれしい。最後のお願いです。お葬式は部下たちに回教式でやらせてください」と言って息を引き取った。時に3月17日のことである。よい死に場所を得たのか、ハリマオの顔には何の苦痛のあともなかった。31歳であった。 ハリマオの存在が初めて日本にもたらされたのは、1942年4月3日である。遺骨が藤原岩市氏の手で福岡に帰国していた家族のもとに届けられた時からである。その日から日本の新聞はトップ扱いでハリマオこと谷豊を国民的英雄に祭り上げ、昭和18年には、彼を主人公にした映画『マライの虎』が大ヒットした。 最近マレーシアのテレビ局が初めて「ハリマオ・谷豊」の特別番組を放映した。その番組は最後をこう締めくくった。「イギリス軍も日本軍も武器ではマレーシアの心を捉えられなかった。心を捉えたのは、マレーを愛した一人の日本人だった」 ※引用 : 日中戦争の問題点を検証する 歴史研究家:岡崎溪子 第87話 マレー作戦▼日韓併合日露戦争はある面で不思議な戦争である。 戦場となった朝鮮半島と満洲に関して当事国である韓国も清国も早々と「中立宣言」 を発表して傍観を決め込んだ。 「どうなってもいいの」というのである。こんな無責任な国があとになって文句たら たら言い出すのだ。 清はロシアに満洲は売り飛ばしたから関知しない、というのだからまだ納得できる。 韓国は日本軍が仁川を基地にしたのだから、自国の防衛権を行使して日本と戦うべき であった。 ただ、京城にもロシア軍がいたのだから独立国ならこちらも自衛権を発動して戦わな ければならない。 国際的に見ても韓国の「戦時局外中立」は卑怯であるという意見が圧倒的で、諸外国 から効力を認められなかった。 両班の魂胆韓国政府や両班たちは実は魂胆があった。 自分たちが頼みにしていた清が凋落する一方なので、ロシアに寄りかかろうとしていた から、日露戦争でロシアが勝てば属国となってお金を貰えると思っていたのである。 贅沢好きの閔妃の時代からロシアに取り入り、関税権をロシアに売っていた。 1896年(明治29)5月のロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に閔泳煥を特命全権大使 として派遣し、「朝露密約」でロシア政府からの援助を取り付けている。 李朝政府は軍事・経済すべてについてロシアの言うとおりにするという密約である。 親露内閣が成立し、ロシア公使館が朝鮮の中心となった。高宗はその後も1年余りに わたってロシア公使館に滞在し、すべての政治はロシアの掌中にあった。日本人顧問 や、日本人軍教官は全員が解任され、ロシア人顧問や、ロシア人軍教官と交替した。 高宗は翌年2月ロシア公使館を出て、国号を大韓帝国と改めるとともに皇帝を称した。 ところが日露戦争が始まってみると日本が緒戦に勝利した。 するとたちまち韓国政府は態度を親露から親日に一変させ日韓議定書が結ばれた。これ により日露戦争遂行上必要な便宜と土地の提供を韓国に義務づけ、韓国政府は日本の承 認なしに第三国との条約を締結できないことが定められた。さらに8月第一次日韓協約 を締結して、韓国政府は日本の推薦する財政・外交顧問を置くことを認めた。 一方、高宗は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてすら ロシアに密書を送るなどの密使外交を展開していった。 日本の韓国に対する宗主権1905年(明治38)のポーツマス条約で日本の勝利で戦争が終結すると、ロシアは 日本の韓国に対する「指導保護及び監理」の権利を認めた。その2ヵ月前に日本は アメリカと桂・タフト協定を結び、アメリカは日本の韓国に対する宗主権を認めた。 ついでイギリスも日本の韓国支配を認めた。 11月、日本は伊藤博文前首相を特派大使としてソウルへ派遣し、第二次日韓協約を 結んだ。日本が韓国の外交権を握ることと、韓国に統監府を置くことを定め、事実上の 保護国とした。統監府は翌1906年2月に開設され、伊藤博文が初代の統監となった。 この時点では日本政府は韓国を併合しようという山県有朋・桂太郎の積極派と、韓国を 保護国として半独立国のまま置こうという伊藤博文の合併消極派に分かれていた。 消極論者にとっては、当時韓国が破産状態で、欧米諸国に対して巨額の対外債務を負っ ていたのを、肩代わりするのを嫌ったのが理由である。 1907年(明治40)6月、オランダのハーグで開催中の第2回万国平和会議に日本からの独立を要請する韓国皇帝の密使を3人送ったが、国際社会から完全に拒絶された。 韓国で利権を手に入れたアメリカ人ハルバートは彼らに加担し、さらにアメリカ大統領 に皇帝の親書を呈したが、これも取り上げられなかった。 事件を知った韓国統監の伊藤博文は、7月に高宗皇帝を退位させて子の純宗を位に付 けるとともに、第三次日韓協約により韓国政府の権限を大幅に縮小し、韓国の軍隊も 解散させた。 追放された旧政府高官と封建的特権を剥奪された両班、西洋文明や日本に反感をいだく 儒者たちが騒乱を引き起こし、治安が悪化していったことが、韓国直接統治に踏み切 らせる大きな理由となっていく。 韓国併合の失敗私は韓国併合は明治政府の失敗だと思っている。 それは基本的に朝鮮人は「漢民族」が好きなのだ。特に「明」の時代を懐かしむ。 明の初代皇帝朱元章は農民の出で、新興宗教の乞食坊主から大盗賊の頭目になり、 ついに天下を取った。 以後の明の歴代皇帝は無能者が多く宦官を重用し10万人を超えた。 無学な宦官が司法権を握り、罪なき有能な官吏を殺害、そのうえ軍隊をも掌握してい た。 こうして滅ぶべくして女直人たちの後金国(のちの清)に滅ぼされたのだが、この明が 好きでたまらない。 シナ民族こそが世界の中心であり、朝鮮が2番目の国であると信じて疑わない。 日本は「倭」という野蛮国である。この日本の子分になることはプライドが許さない。 国が滅ぼうとも、自分たちの一族が隆盛でさえあればいい。 国家も国民の概念も持ちあわさない利己主義の人たちにいかに日本が尽くそうとも 感謝の気持ちは生まれない。それどころか、恩を恨みに変えて平気な人種である。 顔が日本人と似ていてもまったく違う民族だということを明治政府は見抜く必要が あった。 台湾の統治が成功したために朝鮮も併合した方がうまくゆくと思い込んでしまった。 台湾人は医療や教育や産業の成功を喜んで日本に感謝した。 それまでが苦難の歴史を歩んできたため文化を享受できる生活を与えてくれた日本人 を尊敬したのである。 韓国併合ののち終戦まで現在の価格で日本が80兆円もの資本投下をし、日本は世界 で植民地に対して国家予算を持ち出した珍しい国となった。大赤字である。 やはり監視役として軍の駐留だけで留めておいた方がよかったと思う。 親切な日本人は文盲をなくし、衛生的な国家にしたいと努力したが、儒教の悪癖である 残酷な刑罰を廃止し、無能な役人を罷免したことで両班たちの恨みを買った。 土地の正確な測量で特権階級の隠し田を見つけ出したことも余計なことであった。 鉄道やダム建設も日本人がおこなうので、旧来のように賄賂が取れないことが不満で あるから常に工事の妨害をした。 多くの農民が米の生産量が増えて喜んでも、彼らを人間としては見ていなかったから 奴婢として徴用できないことで儲けを失った恨みを日本に向けた。 女性を解放し仕事をすることを恥と思わないように指導したことは男の所有物で好き 勝手できた男たちの楽しみを奪った。 庶民が勤労意欲を持ち、豊かになり人口が増えても、「働かないで贅沢ができるのが 本当の文化人である」と信じて疑わない。 しかし併合でちゃっかりと「日本人」になり、本土や満洲に進出し、金儲けにいそしん だのである。 韓国併合に反対した伊藤博文を暗殺1909年(明治42)10月26日ハルピン駅で前韓国統監伊藤博文を暗殺した安重根が現在の韓国では英雄であるが、バカバカしくて話にならない。 伊藤博文こそ韓国併合に反対した人物であり、韓国と日本の対等合邦を唱えて山県有 朋に食い下がっていたのである。 しかも首相まで勤めた東洋で初めて選挙による議会制度を造った偉大なる政党人で あるからだ。 ましてや現職でもない伊藤博文を殺してもなにも韓国は変わらない。狙撃するなら現 統監の曽弥荒助も伊藤と同意見であるから、山県有朋か寺内正毅をターゲットにすべ きであった。 明治政府はこの無知なテロリスト朝鮮人たちを許しはしない。 1910年、日韓併合翌年8月に伊藤博文の重石が取れたので厳然たる態度に出た。 それが日韓国併合条約調印である。 第一条 韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下 ニ譲与ス 第二条 日本国皇帝陛下ハ前条ニ掲ケタル譲与ヲ受諾シ且全然韓国ヲ日本帝国ニ併合 スルコトヲ承諾ス (以下三条~八条略) そして根っからの軍人寺内正毅(てらうちまさたけ)を第3代の韓国統監に起用した。 寺内は憲兵に警察を兼務させる憲兵警察制度を創始した。 テロリストを押さえ込むためには武断政治こそが必要と判断されたのである。 まったく伊藤博文を失ったことは韓国には痛手であった。 金玉均の「日・中・朝の連帯をもって西欧列強の侵出に対抗する」というアジア主義の 思想は李容九・宋秉ちゅん(ソン・ピョンチュン)によって受け継がれた。 なんとか日本と韓国が対等で合併できるように一進会の14万人のメンバーは態度で 示そうと努力した。 ザンギリ頭にし(当時は儒教思想に反する行為)、日露戦争にも京義線(京城-新義州 間)臨時軍用鉄道建設と北進輸送隊への支援をした。 日本人も内田良平・杉山茂丸が一進会を支援した。 そして明治政府のなかでは伊藤博文こそがよき理解者であったのだ。 議会を立ち上げるにしても選挙をするにしても何の経験もない韓国にとって、伊藤ほど その手順を熟知している者はいないのだ。教えを請う最高の教師である。 伊藤が暗殺されて韓国併合は決定したといっても過言ではない。 韓国が併合されたのち一進会に解散命令が出たこともやむおえない。 韓国人は自らの愚挙によって理想を抹殺したのである。 当時の世界情勢を考えると韓国が単独で独立国を名乗ることは不可能である。 国の予算もなくどんぶり勘定で、お金が必要になると外国に借金するしか能がない。 国際法も知らず、官吏は汚職と陰謀ばかりで国を思う国士がいない。 ロシアの植民地になっていたら幸せだったろうか? ロシアが共産主義を止めたあとでそれまで属国であった東欧諸国の悲惨さを見るがいい。 なによりも朝鮮戦争でソ連の属国になった北朝鮮の実態を見よ。 なぜ日本に併合されなければならなかったか、その原因を追究する態度は現在に至る まで朝鮮人にはまったくない。ただ「反日」を叫ぶばかりである。 未来の展望もない韓国の行く末は暗澹としている。 北朝鮮と共に中国の領土に組み込まれていくのが目に見えるようだ。 どうなろうと日本人はこんどこそ人情を発揮してはならない。 転んで傷付いても自力で立つことの大切さを教えるべきである。 私は若いときに韓国人の不動産屋でアルバイトした経験がある。 小規模経営で従業員は私と男性営業マンの2名だけ。 高利で金を貸す韓国人と組んでいるから、ある人が借金をして自宅を抵当にいれると 金利が払えずに、結局安い値段で家を手放す。それを買い取り修繕して売るのが社長 の商売方法である。 こうして蓄財をしても彼は全部を銀行には預けずに、裏金をいつも自家用車のトランク に入れて運転していた。 「税務署が来たらすぐに逃げられる」という理由で2億円くらいを紙袋に入れていた。 「このお金で息子を医者にするのだ」が口癖である。 小学生のわがまま息子のお供で映画館に行き、漫画の3本立てを観るのも私の仕事である。 ある日私は社長に疑問をぶつけてみた。 「韓国に住む気はないのですか?あなたの祖国でしょう?」と。 「日本みたいに儲からんじゃないか」これは脱税が簡単にできる日本はおいしいという 意味である。 売買契約を成立させたら一割の歩合を払うという約束が守られなかったので私は辞めた。 戦後日本人は満洲や朝鮮や台湾から着の身着のままで祖国日本に帰ってきた。 そして無一文から働き続けて裕福になっていった。 どんな理由があれ、終戦後在日朝鮮人の人たちは祖国に帰れたはずである。 しかし、多くの人が帰らなかったというのが現実である。 それは日本人の勤勉さをよく知っており、朝鮮で貧乏暮らしをするよりも復興する日本 にいればその波に乗っかって自分たちも豊かになれると思ったからだ。 まさに朝鮮での日本の業績を高く評価し、日本人が去った朝鮮が豊かになれるはずが ない、と自国民を信じられなかったのである。 その日本に残留した人たちが日本を非難し、悪事を働いている。 言語道断である。 ※引用 : 日中戦争の問題点を検証する 歴史研究家:岡崎溪子 第44話 日韓併合▼アジアの植民地化
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