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§インドネシアのスマトラ沖地震 12日目

2005-01-06 23:18

▼せめて薬があったら…スマトラ北部、物資行き渡らず

インド洋津波の最大の被災地・スマトラ島最北部では、国際機関や関係国による緊急の支援物資が、十分に被災者に行き渡らない状況が続いている。  バンダアチェの私立ファキナ病院。6日昼前、父親のオスマンさん(43)が息を引き取ると、長女のリアさん(15)が泣き崩れた。傍らにいた近所の人が肩を抱いて慰める。
 母親は津波にさらわれて死亡したが、オスマンさんは一命を取りとめていた。だが、どす黒い土のようなものを吐く日が続いた。薬はなかった。5日になって入院させたが、手遅れだった。「医者に責任はないが、せめて薬があったら……」と、リアさんの叔父がつぶやいた。
 バンダアチェにあった7つの総合病院のうち、5つは津波による被害で使えなくなった。600床を持ち、最も規模の大きかったザイナル・アビディン病院は、どこの病棟も1階は汚泥だらけ。インドネシア各地から来た学生ボランティアたちも、どこから手をつけたらいいのか分からないといった表情をしている。
 「150人の入院患者のうち、半数が死んだ。医者や看護師も多くが死んだ。何もできない。通院治療ができるようになるまで、最低3か月はかかりそうだ」。スラウェシ島のマカッサルから応援に駆けつけたアジア医師連絡協議会(AMDA)インドネシア会長の麻酔医タンラさんは嘆く。ルス・ムナンダール院長は「日本に何とか助けてほしい」と言う。
 食料の配給も十分ではない。地震で倒壊した目抜き通りのデパートの社長が、今月1日から毎日午前9時に行っている食料の無償給付には、6日もおよそ3000人が行列を作った。 - 読売新聞 -

2005-01-06 21:56

▼「知識の欠如が被害を拡大」 現地調査報告

スマトラ沖大地震による津波で被災したスリランカとタイを調査した「アジア防災センター」の寺西章浩・主任研究員ら担当者2人が6日、内閣府で報告会を開いた。寺西さんは「津波に関する知識の欠如が被害を拡大した」と指摘、救援物資の分配や行政とNGOの連携システムを現地で早急に構築する必要があると訴えた。 - 毎日新聞 -

2005-01-06 21:01

▼タイのウタパオに調整本部=1500人派遣、過去最大に-防衛庁

防衛庁は6日、インドネシア・スマトラ沖地震による津波被害の救援・復興支援で、タイのウタパオ基地に「連絡調整本部」を設置することを決めた。国際緊急援助活動を陸海空の3自衛隊がそろって行うのは初めてで、3自衛隊の連携を図るのが目的。また陸自・海自への派遣命令は7日にも出す方針だ。派遣規模は空自と昨年末の海自艦船(約580人)を含め過去最大の1500人超となる見通し。 - 時事通信 -

2005-01-06 20:40

▼津波に襲われ草地など流出 米衛星がスマトラ島撮影

日立ソフトウェアエンジニアリングは6日、米国の地球観測衛星が、スマトラ沖地震の発生前後に撮影したスマトラ島北部の衛星写真を公表した。津波が家屋や養殖池、草地を洗い流し、赤いつめ跡を残している様子を克明にとらえている。  写真は、米デジタルグローブ社の「クイックバード」が昨年4月と今月2日に撮影した、インドネシア・アチェ州の州都バンダアチェ周辺。  津波で養殖池があった場所が一面の海となり、なめらかな弧を描いていた海岸線は凸凹になり、数十メートルも後退した。緑色の水田や草地は跡形もなく流され、赤茶けた地面が、残されたヤシの果樹園を取り囲んでいる。  研究など災害復旧支援のため、日立ソフトがインターネットで公表している。URLアドレスは http://www.hitachisoft.jp/News/News295.html - 共同通信 -

2005-01-06 17:37

▼スマトラ地震 「陸の孤島」で日本のNGO奮闘

スマトラ沖大地震・津波の震源地に最も近く交通・通信が途絶、「陸の孤島」と化していたインドネシア・スマトラ島の西海岸で日本のNGO(非政府組織)が健闘している。日本政府の緊急援助を委託された「ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)」がムラボー郊外の村に外国団体として初めて援助物資を配り、日本赤十字社の医師らもムラボーで最初の外国医療チームとなった。
 アチェ州の州都バンダアチェは空港が無事だったため、被災直後から空路で物資が入り始め、東海岸沿いの陸路からも物資が運ばれている。しかし、西海岸の中核都市ムラボーは空港の滑走路が損壊したうえ、海岸沿いの幹線道路も橋が落ちるなど寸断され、西海岸一帯で支援物資の搬入が遅れている。
 PWJの先遣隊2人は2日、メダンからチャーター機で西海岸のブランピディーに入り、個人から乗用車を借りてムラボーに到着した。被災状況や避難民の生活を調査後、追加のスタッフとともにブランピディーで物資を調達し、3日、ムラボー郊外のチョ・スムルン村(人口850人)に配った。
 同村には近隣村民を含め約930人がモスク(イスラム礼拝堂)などで避難生活を送っている。1日にインドネシア軍が支援食料を届けたが、米100キロなど少量にとどまっていた。PWJが米1トンを含むトラック2台分の食料、衣料、医薬品を届けると、住民は大変な喜びようだった。
 PWJスマトラ島支援チームを統括する金丸智昭さん(38)は「私たちが確保したルートは他のNGOにも踏襲され、今後は多くの団体が入って来るだろう」と話した。  NGO関係者によると、発展途上国では支援物資の一部を政府関係者が横領するなどして住民に届かないケースもある。インドネシア軍は当初、PWJに物資を軍を通じて支給するよう求めたが、PWJ側が2日間をかけて軍側を説得し、兵士立ち会いのもとで直接配ることを許された。
 一方、国際赤十字は3日、ムラボーで医師3人を含む11人の医療チームを発足させたが、この際の調査・調整を日本赤十字社が担当した。統括の宮田昭医師は「被災者の外傷の治療もまだ十分にできていない。インドネシア国内のボランティアの医師らも疲れている」と話し、国際協力の必要性を強調した。
 NGOメンバーらは到着当初、駐屯地の倉庫に狭いスペースをあてがわれただけで、安全な寝場所の確保も課題だ。また、ムラボーより北の地域にはまだほとんど支援が届いておらず、PWJなどがアクセス方法を探っている。 - 毎日新聞 -

2005-01-06 17:11

▼津波遭遇の酒井さん「運が良かった」

タイ南部のピピ島に滞在中、スマトラ沖地震の津波に遭った元香川大教育学部助教授、酒井直之さん(五六)が六日、香川県高松市での帰国報告会などに出席し、「家族三人けがもなく、運が良かった」と体験を語った。
 酒井さんは、国際協力機構のシニア海外ボランティア(保健体育指導)で昨年四月からネパールに派遣され、正月の一時帰国を前にピピ島などを訪れていた。
 酒井さんは、二十六日午前十時半ごろ、妻(五五)と長女(一二)らと島東部のビーチにいた。波が速く濁っていたため、場所を変更しようと背後の山を登っていて難を逃れた。「長居をしていたら危険だった」という。
 報告会はネパールでの活動を紹介してもらおうと、関係者が地震前から用意したものだったが、まずは酒井さんが現地の状況を報告。「不幸中の幸が重なり、四つも五つも命を助けられた」と語ると、友人らは「よかったね」と声をかけた。
 また、昨春まで事務局長を務めていた高松市のNPO法人を訪問。安心した表情のスタッフらに「迷惑をかけた」と笑顔をみせていた。 - 四国新聞 -

2005-01-06 17:02

▼不明者、4月以降は「死亡」認定=保険金支払いで特例措置-タイ

タイ政府は6日、スマトラ沖地震による津波で行方不明になったタイ人について、遺体が発見できなかったり身元が特定できなかった場合、4月以降は「死亡」と認定することを決めた。被災者への保険金支払い手続きを円滑化し、被災地の復興を加速するのが狙い。 - 時事通信 -

2005-01-06 15:29

▼世界遺産の城壁が2千人救う 京大助教授、スリランカで津波遭遇

インド洋沿岸各国に大きな被害をもたらしているスマトラ沖地震で、スリランカで調査活動中だった京都大工学研究科の布野修司助教授(都市計画)が津波に遭遇した。布野助教授は世界遺産の要塞(ようさい)都市に滞在中で無事だったが、市街地は津波の直撃を受けた。
 布野助教授は昨年12月18日から應地利明京大名誉教授とスリランカに入り、植民地時代の要塞都市の調査を進めていた。地震発生前日の同25日には南部の都市ゴールにある要塞都市「ゴール・フォート」内の宿に泊まり、当日朝を迎えた。  ゴールは交易の要衝だったため、17世紀にポルトガルが海岸沿いに要塞を建設、オランダがこれを奪って要塞都市に築き上げた。現在は世界文化遺産に登録されている。
 別の都市への出発直前の26日午前9時15分に津波の第一波が来襲したが、ゴール・フォートは、要塞を囲む高さ約5メートルの城壁に守られ、ひざ下までの浸水で免れ、城壁内の約2200人の居住者は無事だった。しかし、城壁の外に造られた新しい市街地には高さ5メートルを超える津波が襲い、2000人を超える犠牲者が出た。
 布野助教授は屋内にいたが、外からの異様な声に驚いて外に出ると、宿近くの路地に水が流れ込んできた。「最初は水道管の破裂かと思った」と布野助教授。城壁の外を見て「高潮にしてはおかしい」と思い、ラジオでスマトラ沖で地震があったことを聞き、ようやく津波と理解したという。
 ■海岸のスラム、救済急務
 津波被害で海岸沿いの道路も鉄道も寸断されたため、布野助教授らは、スリランカ・モラトゥア大の共同研究者とともに山道を選んで首都コロンボに移動。翌27日にコロンボ南部の西海岸を視察したが、海沿いに立ち並んでいた「不法占拠者」と呼ばれる人びとの小屋はほとんどが倒壊しており、弔意を示す白い旗が並んでいた。
 このほど帰国した布野助教授は「私は幸運にも城壁に守られたが、海岸全部を城壁にはできない。内戦が続いてきたスリランカ北部とともに、海岸に住まざるをえないスラムの人びとの救援が大きな課題になる」と話している。 - 京都新聞 -

2005-01-06 15:11

▼志半ば帰国迷う邦人店主 プーケット島、八尾出身の長谷川さん

津波で土産物店全壊、破傷風で入院
 【プーケット島(タイ南部)=内海俊彦】インド洋大津波で、プーケット島で経営する土産物店が全壊、さらに破傷風にかかり、津波から十日以上が過ぎた今も現地の病院に入院している日本人男性がいる。大阪府八尾市の自宅に家族を残し、単身タイに渡っていた男性は今、突然の災いに、店を閉めて帰国するかどうか、悩んでいる。
 パトンビーチのパトンヴィラホテル一階で土産物店「プーケットハセガワカンパニー」を経営する長谷川雅良さん(51)。津波があった先月二十六日午前、開店の準備中だった長谷川さんは津波による濁流の中、慌ててホテルの階段を駆け上がった。  途中で左足の甲を切ったが、「まったく覚えていない。たいして気にならなかったのに」と、話す。
 しかし、翌二十七日に左足は腫れ始め、近くの病院で破傷風と診断。傷口から菌が入ったとみられ、即日入院することになった。  今も欠かさず抗生物質を注入しているが、時折三八度前後の発熱があり、足の腫れも完全にはひかない。
 日本に妻の優子さん(49)と二人の娘を残して単身で乗り込んだプーケット。優子さんは毎日、長谷川さんと電話で話すが、大阪に戻って治療することを勧めている。「本人が決めて始めた仕事なので最後まで見守ってあげたい。でもまず体を早く治してもらいたいから」と優子さん。近く二女の有紀さん(26)がタイへ見舞いに来る予定だ。
 長谷川さんは四十六歳のときに会社を辞め、単身タイ・プーケットに渡って土産物店の経営を始めた。「三年前ぐらいから軌道に乗りだしました。十年働いたら日本に戻るつもりだったけれど、このまま予定を早めなければいけないかも」。長谷川さんは左足をさすりながら、再建のめどがたたない店を案じている。 - 産経新聞 -

2005-01-06 15:02

▼中越地震ボランティアも非業の死

スマトラ沖大地震に伴う津波で死亡が確認された横浜市職員の樋浦達夫さん(57)=横浜市栄区=は、小中学校時代を過ごした新潟県小千谷市の友人にあてて年賀状を出していた。新潟県中越地震からの古里の復興を祈る言葉が書かれていた。中越地震では小千谷市に駆けつけ、ボランティア活動をした樋浦さんの死に、友人は「『人の役に立ちたい』と話していたのに」と残念がった。
 樋浦さんは家族が旧国鉄職員で、小千谷市内の職員住宅に住んでいたという。市立東小千谷中から県立長岡高校、東北大へと進学し、横浜市に就職した。同市によると、昨年11月5~9日に休暇を取り、ボランティアとして小千谷市を訪れていた。
 小学校から高校まで同級生だった小千谷市東栄1の自営業、岩渕保夫さん(57)宅には今年正月、年賀状が届いた。「頑張れ中越、頑張れ小千谷。速やかな復興を心から祈っています」と、思いがつづられていた。
 岩渕さんは「まじめで実直な男だった。本当に神も仏もない」と話す。「ボランティアで来た時に立ち寄って『みんなに被害はなかったか』と心配してくれていた」と、人柄をしのんだ。
 樋浦さんは昨年12月14日から1月1日までの予定でスリランカ各地を1人で旅行中に被災。同国南部のゴールで死亡が確認された。 - 毎日新聞 -

2005-01-06 14:35

▼スリランカ津波被災地、日本医療団の苦闘続く

インドネシア・スマトラ沖地震と津波の被災者救援のため、日本政府がスリランカ東部に派遣した医療チームが、苦闘を強いられている。
 スリランカ最大の死者が出たアンパーラ県の海岸から約500メートル。カルムナイ地区の避難所アル・ヒラール小学校の教室には、津波で家が倒壊、行き場を失った1250人が暮らす。衛生確保のため、校舎に吹き付けた消毒液がにおう中、避難者は教室の机を積み上げ、セメントの床にマットも毛布もなく夜を明かす。
 医師4人を含む計20人が活動を始めたのは、12月30日。図書室をスチール製の棚で仕切り、3室の診療室を急ごしらえした。これまでに530人以上を診療。4割が、がれきで足などを負傷した患者だが、骨折から肺炎、下痢、ショックによる精神的な問題まで、症状は様々だ。
 最初の患者は、おぼれて呼吸停止に陥った5歳の男児。横田裕行医師(49)(日本医大高度救命救急センター)は「近くの病院を退院させられ、ここに運び込まれた。蘇生(そせい)したが意識が戻らず、入院施設のある病院に転送せざるをえなかった」と話す。苦いスタートとなった。
 言葉の壁も厚い。日本語が出来るシンハリ語の通訳が、コロンボから同行したが、現地は少数派タミル語。2人の通訳を介するので、問診などの意思疎通には時間がかかるという。
 しかし、津波から逃げる時に転倒し、腰を負傷した主婦フルヤ・ジャミールさん(36)は「地元の医師が避難して助けてもらえなかった。日本の人たち、ありがとう。ありがとう」と繰り返した。
 そんな医療チームを1日、洪水が襲った。モンスーンの影響で大雨が降り、活動地域一帯が冠水。道路を横切る濁流を越えて小学校に向かうのは危険と判断し、この日の活動を断念した。
 「天候だけは、どうしようもない」。顔をしかめる中野勝一団長(外務省南西アジア課地域調整官)の両腕は一面、虫に刺されて真っ赤にはれ上がっていた。宿泊先のスリランカ軍施設では、ダニやナンキンムシに悩まされる。
 避難所で最も警戒すべきなのは、感染症のまん延。永井周子医師(京都大大学院)は「コレラやデング熱の例が出ていないのは朗報。ただ、学校前の水たまりに生活排水が流れ込むと、感染の原因になりかねない」と話す。発熱や下痢を訴える患者に、神経をすり減らす毎日が続いている。 - 読売新聞 -

2005-01-06 13:49

▼「国連主導の支援構築」小泉首相強調へ…復興会議開幕

インドネシア・スマトラ沖地震と津波による被災地の復興支援策を話し合う被災国支援緊急首脳会議が6日午前、ジャカルタで始まった。
 小泉首相は「資金、人的貢献、知見の3点で最大限の支援を実施する」として、被災国や国際機関に対する計5億ドル(約520億円)の無償資金供与などを柱とする日本の支援策を表明する。
 会議には26か国・国際機関の首脳級が出席した。各国が拠出を表明する30―40億ドルの支援金について国連主導で効率的に配分するための方策などを話し合うのが最大の目的だ。また、被災国からの要請が強いインド洋での津波早期警戒システムを構築することも確認する。
 会議の冒頭、議長を務めるインドネシアのユドヨノ大統領の呼びかけで参加者は1分間の黙とうを行った。大統領は、続く演説の中で、「今回の災害は、過去に例がない」規模だとし、各国に対し、迅速な救援と長期的な復興支援を求めた。また、「国連が主体となって各国が協力すべきだ」と述べ、各国が結束した形での支援体制の構築を要請した。
 国連のアナン事務総長は、被災者に対する人道支援として今後半年間で総額9億7700万ドルが必要だとする緊急アピールを発表した。事務総長はまた、今回の津波が国連発足以来、「最大の自然災害である」との認識を示したうえで、「我々は津波の前には無力だったが、次の(災害の)波を止めることはできる」と述べ、復興支援への決意を表明した。
 小泉首相は、阪神大震災や先の新潟県中越地震の経験に言及し、「アジアの人々の痛みは我々の痛みだ」と述べて、日本として支援に全力を挙げる姿勢を示す。また、日本、米国、オーストラリア、インドを軸とする「中核グループ」による支援について「効果的に機能した」と評価したうえで、「今後は国連が中心となり、国際社会の支援をけん引していく」として、国連主導の支援態勢作りを呼びかける。
 日本の具体的な支援策については、資金面では、被災国に2億5000万ドル、被災国を支援する国際機関に2億5000万ドルの計5億ドルを無償で供与する方針を示す。インドネシア、スリランカを念頭に、被災国の公的債務の支払い猶予も各国に求める。さらに、中長期的な復旧・復興計画にも、追加的な資金拠出の用意があることを伝える。
 人的貢献では、国際緊急援助隊をすでに派遣していることや、自衛隊をインドネシアで輸送支援や伝染病を防ぐための医療・防疫活動に当たらせることを表明する。 - 読売新聞 -

2005-01-06 12:37

▼恐怖と絶望、後遺症重く…津波被害最大のバンダアチェ

インド洋津波で最大の被害を受けたインドネシア・スマトラ島の北端ナングロアチェ・ダルサラム州の州都バンダアチェでは、辛くも一命を拾った人々に、未曽有の恐怖と絶望による精神的後遺症が重くのしかかっている。
 5日夜、運送会社経営のエリザルさん(34)は、被災者らでごった返すバンダアチェの空港で、妻のフェラさん(30)と長男ハフィット君(5)を見送った。フェラさんを、メダンの病院に行かせるためだ。
 前日の昼ごろ、一家が身を寄せているフェラさんの実家の前を、1台のトラックが通った。わずかに地響きがした。フェラさんの顔が引きつった。「ツナミよ。ツナミが来るのよ」。大声で泣き叫ぶ。
 エリザルさんと、フェラさんの弟のドゥデンさん(29)がなだめたが、フェラさんにかかったじゅ縛は解けない。「家族会議を開いて、姉をメダンの医者に診せることにした」とドゥデンさんは言った。
 あの12月26日、海岸から5キロ離れたエリザルさんの家も津波に襲われた。父親に抱きかかえられたハフィット君は助かったが、長女のアタヤちゃん(3)は、母親の腕から波にさらわれた。その日のうちに、海に近い橋のたもとで遺体で見つかった。フェラさんは、狂ったように泣き続けた。
 バンダアチェには、100か所近い避難民キャンプができている。その1つを、5日夜、訪れた。食物や飲料水が足りない。トイレさえもない。モスク(イスラム礼拝所)の前に多くのテントがある。出来合いのつっかい棒に黒いビニールをかぶせただけの粗末なテントが大半だ。およそ3000人が暮らしているという。
 「やっと今日から飲み水が手に入るようになった。だけど、食事はめんか、ご飯だけだ。肉も野菜もない」。69人が同居する広さ30畳ほどのテントの中、ランタンの光を浴びた大工のアブドラさん(27)は憔悴(しょうすい)しきった顔で言った。妻のアフリアンティさん(26)に抱かれている1歳半の娘ナディヤちゃんは、ここ数日、せきが止まらないという。
 バンダアチェの人口50万人のうち、10万人近くが死亡したとの情報さえある。4日には、捜索活動にあたっているインドネシア海軍が、橋のたもとで500人もの遺体を1度に見つけたともいう。 - 読売新聞 -

2005-01-06 11:41

▼日本人旅行者の所在未確認432人

スマトラ沖大地震の津波は、外務省によると家族から照会のあった日本人旅行者で432人、在留邦人6人の所在が6日午前現在、確認できていない。所在不明の旅行者のうち被災地にいた可能性がはっきりしているのは150~160人。内訳はタイ110~120人、スリランカ30~40人、モルディブ10~20人となっている。在留邦人では、タイ・プーケット周辺の5人、マレーシア・ペナン周辺で1人の確認ができていない。 - 毎日新聞 -

2005-01-06 11:11

▼大津波が列車破壊、千数百人犠牲に

スマトラ沖大地震ではスリランカの南部沿岸シーニガマを運行中の同国国鉄の列車が大津波の直撃を受け、車内にいた千数百人がほぼ全員が死亡した。世界最悪級の列車被害となった事故現場に5日、入った。
 列車は12月26日午前7時ごろコロンボを出発し、南部のマータラへ向かった。クリスマス明けの日曜日で普段よりも多い600~700人ほどが乗り込み、満席状態だったという。
 コロンボから約100キロ南下した現場を進行中に、津波の第1波に巻き込まれた。波の高さは1メートル程度だったが、機関車のディーゼルエンジンが故障し停止した。そこへ付近の住民約500人が乗り込んできた。第1波を受け、列車の中なら安全と避難してきたらしい。
 直後に第2波の大津波が襲った。直前に列車から逃げ出したごくわずかの乗客を除き、ほぼ全員が外に投げ出されるか列車内でおぼれるなどして死亡したとみられている。  現場は海岸線から約200メートル。ほとんど起伏がなく列車は真横からまともに津波の直撃を受けた。6両の客車は連結がはずれてばらばらになり、線路からほぼ直角に曲がって傾いた。
 車内には乗客のものとみられるぬいぐるみやバッグが残され無残さを際立たせる。「列車が少しでも遅れていたら直撃は免れていたかもしれない」。遺体捜索を続ける同国軍兵士は運命の無情さをかみしめるように話した。 - 毎日新聞 -

2005-01-06 10:53

▼津波、ブラジル東部に到達 大西洋越え22時間後

インド洋大津波の影響による潮位の変化が、震源地のインドネシア・スマトラ島沖からインド洋と大西洋を隔てたブラジル東部で、同国海軍によって観測されていたことが分かった。5日付のグロボ紙が伝えた。  震源地からの距離は1万5000キロ以上。津波の規模の大きさを示しており、海軍の海洋専門家は「学術的に興味深い」と話している。
 リオデジャネイロ近郊の2カ所に設置された潮位観測装置の記録では、地震発生から約22時間後、ブラジル東部時間の12月26日午後9時(日本時間27日午前8時)ごろに潮位が約30センチ上昇。この後、約40分の間隔で、最大約60センチの幅で下降と上昇を繰り返した。 - 共同通信 -

2005-01-06 09:28

▼多田さん、スマトラ沖地震の恐怖語る

タイ南部のピピ島に滞在中、スマトラ沖地震の津波に遭遇した香川県高松市の塾経営、多田進さん(57)が帰国。五日に四国新聞社を訪れ、「間一髪で命が助かった」と恐怖の体験を語った。
 多田さんは毎冬のように妻(49)とピピ島を旅行。今回は知人で、国際協力機構がネパールに派遣中だったシニア海外ボランティアの元香川大教育学部助教授、酒井直之さん(56)の一家三人と一緒だった。
 地震発生から約二時間半後の二十六日午前十時半ごろ、酒井さんらと島東岸のビーチに到着。第一波の到達後とみられ、海は褐色に濁り、波が速かった。遠浅の海岸を泳いでみて、「子供には危ない」と判断、近くのビーチに移ることにした。「大人だけならそのまま潜っていて、死んでいたかもしれない」と、多田さんは振り返る。
 「デンジャラス(危ない)」「ビッグ・ウエーブ(大波だ)」。小高い丘を移動する途中、避難するタイ人従業員らから状況を聞いた。滞在先のロングビーチを高台から眺め、第二波のため多くの建物が壊れているのを見て「初めて怖いと感じた」。褐色の海を大きな波が走るのも見た。
 ロッジに残っていた妻は読書中、「黒い水」が突然室内に流れ込んだ。近くの宿泊客らと急いで丘に避難し、けがはなかったが、大きなショックを受けたという。
 街は「いつもの風景が一変した」と多田さん。木製の小屋は倒壊、鉄筋の建物もガラスが割れ、看板の支柱は九〇度折れ曲がった。海では小さな船が転覆。ビーチから約五十メートル離れても、津波のつめ跡がみられた。
 外国人旅行者ら避難者の中にはすり傷を負った人が多かったが、現地では十分に手当てできず、骨折などの重傷者は船で搬送。船から海に投げ出され、救出された日本人女性もいたという。
  ◇     ◇
 多田さんは九日午後一時から、高松市番町一丁目のアイパル香川で帰国報告会を開く。 - 四国新聞 -

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